富岡在住 50代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
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富岡在住 50代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
PDF版
インタビューを書き起こした記録です。
コンテンツ番号 UT00000090
説明・要約
【震災当日】
●震災後すぐに娘たちを名古屋へ:結局、一晩避難して翌朝自宅に帰ると夫がいました。夫は渋谷駅で地下鉄にいるところで被災して、有楽町線が動いてから新木場まで来て、歩いて家まで帰ってきたそうです。震災後の土日のどちらかは図書館の本館にいました。地下書庫の蛍光灯が落ちたので、本の間に入り込んだ破片を取り除く作業をしていました。主人も月曜から仕事で、娘ふたりは新浦安の食品関係のバイトだったから、しばらくは休みになりました。液状化の後の乾いた土で街中に砂埃が舞い始めて、下の娘が喘息だったので週明けすぐに娘たちを名古屋の実家に避難させました。その後、放射能の話も出てきたため4月上旬までは向こうにいましたね。
●とにかく水で苦労したあの1カ月:その後は夫婦で家のまわりの泥かきをやったり、給水所に行ったり。富岡小学校が給水所になっていたんですが給水車がなかなか来なくて、来てもすぐに水が尽きて、次はいつ給水車が来るか分からなくて……騒ぎになっていましたよね。そしたら、近くの公園で水が出たという話が聞こえてきて、そっちで水を汲んでいました。あの時期はやっぱり水に悩まされましたよね。でも元町に住んでいる図書館職員にお風呂を借りたり、洗濯をさせてもらったりとありがたかったですよ。結局、下水管が直るまではかなり時間がかかりました。
●留学中の息子がチャリティーTシャツを作った:アメリカにいた息子は同じ学校に通う日本人学生たちとチャリティーTシャツを作り、その売上を義捐金にあてました。プランを決めてからスポンサーを見つけ、デザイン学科の学生にデザインしてもらい、背中にスポンサーのロゴを入れて。アメリカってそういう事がすぐにできる文化が根付いているんでしょうね。