変化を乗り越えた街 浦安
変化を乗り越えた街 浦安
2011年6月の書庫展示より
浦安市における東日本大震災の記録コンテンツのご利用について(利用規約)
平成23年3月11日、東北地方の太平洋沖で巨大地震が発生しました。
浦安市も大きな揺れに見舞われ、とくに新町地区や中町地区では液状化が発生し、道路の地割れや陥没などの被害を受けました。また、市内の水道、ガス、下水道のライフラインは大打撃を受け、その応急復旧が完了するのに1ヶ月を越える時間が必要でした。
過去、浦安は三方を水に囲まれ、度々、水害に見舞われる半農半漁の小さな漁村でした。しかし、公有水面埋立事業を機に街のスタイルが変化しました。地下鉄東西線の開通、漁業権の放棄、埋立地開発などの街づくりを進め、今日の浦安市の姿である東京ベイエリアを代表する住宅都市、観光都市に大変化を遂げました。
今回、図書館では浦安が乗り越えてきた大きな変化をテーマに取り上げ、浦安の歴史をご紹介します。今、浦安は街の復興に取り組んでいます。図書館が所蔵する資料が街の復興への一助になれば幸いです。
その@ 浦安の概要
【位置】
浦安市は東京湾の奥部に位置し、北は千葉県市川市と陸続きで接し、東と南は東京湾に面している。土地は旧江戸川の河口に発達した沖積層に属する低地と、その3倍に及ぶ公有水面埋立事業によって造成された埋立地からなっている。
【沿革】
明治22年に堀江、猫実、当代島の三村が合併して人口5,946人の浦安村が誕生した。明治42年に町制を施行、昭和56年に市制を施行し、「浦安市」が誕生した。千葉県下27番目の市であり、市制施行当時、人口は65,662人であった。
古くから遠浅の海を漁場として魚類や貝、海苔を採っていた半農半漁の漁村であった。しかし、公有水面埋立事業をきっかけに漁業権を全面放棄して以来、交通網の整備や都市開発によって急速に都市化した。また、大型リゾート施設の開発などにより国際色豊かな観光都市として目覚しい発展を遂げ、東京ベイエリアを代表する都市になった。
そのA 浦安と災害
浦安の歴史は自然災害との闘いの歴史であった。
東と南は東京湾に面し、西は旧江戸川に接している地勢上、江戸川の氾濫と東京湾からの高潮による水害を受けやすく、度々、壊滅的な被害を受けてきた。
特に大きな被害をもたらしたのは昭和24年9月のキティ台風であった。台風来襲時が満潮時にあたったため、潮位は大正6年の大洪水以来最高を示し、一気に高潮に襲われた。『災害と闘ってきたまち』によると人口15,260人のうち14,182人が罹災し、3,240戸のうち2,419戸が被害を受けたとあり、じつに浦安の7割以上が床上浸水した。この台風を契機として、本格的な河川堤防工事が行われ、強固な堤防が築かれた。
また、昔は境川両岸に住宅が密集していたため、コレラ・赤痢などの伝染病や火事がひとたび起こると、周辺に広がりやすく大きな被害を受けてきた。
浦安市教育委員会/編 1996年
浦安市文化財調査報告書の第8集。浦安で起きた水害、火災、震災、戦災の報告書。それぞれの災害の概要と被害状況について、様々な資料をもとに詳しく説明されている。
そのB 黒い水事件と漁業権放棄
昭和33年4月、江戸川上流にある本州製紙江戸川工場から廃水された真っ黒な汚水によって浦安の漁場が汚染され、魚介類に大きな被害がでた。浦安の漁民たちは何度も工場側と折衝したが、汚水は流され続けた。同年5月、集団抗議をすべく工場に乗り込んだところ、汚水が流されているのを目前にみて激怒した漁民たちが工場のガラスを割ったり、石やレンガを投げ込む騒動となってしまった。そして、6月10日、度重なる会社側の不誠実な対応に抗議すべく、毒水放流反対の町民大会を開催した。大会終了後、陳情のために工場に訪れたが、鉄の門扉を固く閉ざす工場側の態度に激昂した漁民たちは門扉を押し破って工場内になだれ込み、会社側の要請により待機していた警察官との乱闘になった。この結果、漁民から重軽傷者105人をだすという大事件になってしまった。
これをきっかけに政府は「公共用水域の水質保全に関する法律」と「工場排水等の規制に関する法律」を相次いで公布し、この事件は戦後の経済一辺倒の政策への警鐘となった。また、このころから浦安の漁場は京浜工業地帯の埋立てなどにより水質が悪化し漁獲量は減少の一途であったため、昭和37年の漁業権一部放棄を経て、ついに昭和46年に漁業権を全面放棄した。
博物館ボランティア「浦安・聞き書き隊」/編纂 2009年
浦安市文化財調査報告書の第5集。「黒い水事件」当時を知る人々に聞き取り調査を行い、まとめられた報告書。漁業権放棄前後の浦安の漁業がわかる。
そのC 公有水面埋立事業
高度経済成長が始まる昭和30年代、すでに飽和状態の京浜工業地帯にかわり、千葉県臨海地帯の海面埋立てが急速に進められていた。それにより魚場の水質汚染が進んだことや、昭和33年4月の黒い水事件以来、漁獲量が著しく減少し、漁業の存続が困難になっていたため、埋立てによる開発が検討されるようになってきた。
ちょうどそのころ、浦安町の海面の土地に東洋一の遊園地を作る計画がもちあがり、浦安町は、総合開発審議会に諮問するとともに漁業協同組合と協議した。そして、紆余曲折の末、昭和37年、漁業権の一部放棄に至った。これに基づき、千葉県は株式会社オリエンタルランドとの間に「浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定」を締結し、住宅地の造成、大規模遊園地の誘致、鉄鋼流通基地の形成を基本とする公有水面埋立事業が決定された。昭和39年より本格的な工事が始まり、昭和50年11月に第1期埋立事業が完了した。これにより町域は4.43kuから11.34kuに拡大した。
第2期埋立事業は昭和46年7月の漁業権全面放棄を受け、昭和47年12月から始まり、昭和55年12月に完了した。これにより町域は16.98kuまで拡大し、埋立て前のおよそ4倍になった。
総合政策推進室企画課/制作 1991年
公有水面埋立事業の概要と市域面積の拡大している過程がわかる。埋立地の開発と街づくりについて説明されている。
そのD 都市整備と人口増加
かつて浦安は東京湾に隣接するという立地条件でありながら、交通が不便であったため「陸の孤島」と呼ばれていた。明治、大正、昭和初期まで自然増による緩やかな人口増加を続けていた。しかし、漁業権の一部放棄による漁業者の転職や、昭和35年ごろから始まった地盤沈下のために離農者が増加するなどの要因が重なり、町の様相が大きく変わりつつあった。そして昭和44年に地下鉄東西線が開通したことにより、浦安は首都圏の住宅都市として急速に都市化し、人口が増加した。
さらに、昭和50年代に入ると埋立地で大規模住宅開発が始まったため、急激に人口が増加した。そして、急増した埋立地の通勤、通学の足として、また、レジャー施設へのアクセスとしてJR京葉線が平成2年に開通すると、新浦安駅前は市の中心エリアとして、舞浜駅前は、市民生活の拠点としてはもとより、東京ディズニーリゾートの玄関口として都市計画に基づいて整備された。
浦安市教育委員会/編 1996年
浦安市文化財調査報告書の第9集。水上交通から陸上交通へ変化する浦安の交通史と浦安市としての発展過程を記録した資料。
そのE 東日本大震災
平成23年3月11日(金曜日) 14時46分 地震発生。
同日、15時50分に、市災害対策本部が設置され、被災状況の把握をはじめとする災害対策が始まった。市は全職員を災害対策に動員し、被災への対応に努力した。
市内のライフラインは壊滅的な被害を受け、上水道の断水は約3万5千世帯、下水道の使用停止や一部制限が約3万7千世帯、ガスの供給停止が約5千世帯に上った。このほかに液状化による道路の損壊、住宅地が液状化したことによる家屋への被害等様々な被害が発生した。
こうした状況を踏まえ、激甚災害法に基づく「激甚災害(本激)」指定、災害救助法の適用を受けることとなった。
浦安市総務部防災課/編 2005年
東日本大震災前の調査であるが、浦安市の地震防災について詳しい資料。詳細版も中央図書館で閲覧が可能。
*東日本大震災についての浦安市関係の新聞記事と雑誌記事は中央図書館レファレンス室で閲覧できます。