今川在住 40代女性 震災体験談(震災当日の出来事)
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今川在住 40代女性 震災体験談(震災当日の出来事)
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インタビューを書き起こした記録です。
コンテンツ番号 UT00000185
説明・要約
●葛西で仕事中に被災。大きく波打つ水槽の水:当時は葛西で配送の仕事をしていました。仕事が終わってセンターに戻り、商品ボックスを水槽に浮かべて漂白している最中に地震が起きました。漂白の水がどんどん大きく波打って、建物がガタガタと音を立てていました。慌てて外に飛び出し、他のスタッフたちと「どうなってるのこれ!?」という感じでした。地震が収まってセンターに入ってみても仕事なんてできる気分でもないし、そうこうしている内にまた余震が起きて外に出たりと落ち着かない状況が続きました。あの時、センターの外に赤ちゃんをおんぶした若いママがいて、「どこか避難できる場所はないですか?」と困っていたのが印象的ですね。「あぁ、避難所に行くほどの状況なのね」と思って見ていました。地震の直後は携帯電話も固定電話もつながらなくて、主人とも連絡がとれない状態のまま時間が過ぎていきました。
●子どもたちを迎えにいくと街は液状化に:当時は浦安市内の小学校と保育園に子どもがいたので、とても心配でした。上司が「会社の車で子どもを迎えに行っていいよ」と言ってくれたので、とりあえず自宅に寄ってからその先にある保育園へ向かうことにしました。浦安駅の方から南下していくと、湾岸道路を越えたあたりから街の様子が一変していましたね。まさか液状化になっているなんて思ってもいなかったですから。水に埋もれた車もありましたよ。保育園に近づけないと判断して、小学校へ先に向かいました。校庭には水があちこちに溜まっていて、子どもは教室にいました。保育園に行こうとしたら、やっぱりどのルートを使うにしても保育園まで近づけない。でもどうにか保育園まで辿りついたんだと思います。すごい時間も経っていましたよね。センターを出たのが4時くらいで、保育園に着いた頃にはもう暗くなっていたと思います。車を返すために、保育園から新浦安駅のほうを経由してやなぎ通りで葛西に向かいました。標識が傾いたり、そこかしこに泥水が出ていて大変な有様でしたよね。「渋谷まで」なんて札を下げてヒッチハイクしている男の子もいました。で、湾岸道路を越えて元町に入ると何でもないんですよ。電車をあきらめて歩いている人もたくさんいました。カーラジオからは二次災害に気を付けましょうとか、電車が止まっているとか、東北が震源地とかいう情報は流れていました。相変わらず主人とは連絡が取れなくて、実家にもつながらない状況で、車をセンターに返してから子どもたちと3人で歩いて帰りました。
●浦安駅で夫と再会:家に戻っても落ち着かないだろうから、浦安駅近くのファミレスでごはんを済ませる事にしたんです。そうしたら主人と携帯が繋がって。主人はその日は夜勤の予定で、今川の自宅から自転車で浦安駅に向かい、駐輪場で被災したと後で聞きました。電車はすぐ動くだろうと浦安駅で待っていたようです。自分が職場に行かないと、前シフトのスタッフが帰れなくなると考えていたようで、タクシーにもすごい行列ができていて。結局は駅から動けないまま数時間ほどいました。そこから主人が合流して、4人で食事をしてから帰宅しました。境川沿いを歩いて今川まで来たら、足元の感触がアスファルトではありません。街灯が消えているから真っ暗で見えないけど、1歩歩くと足がズブズブと入るような。何だろう?おかしいな?と思って自宅に到着しました。玄関前には3段あるんですが、足の感覚では2段しかなくて「あれ?気のせいかな」といった感じです。怖いからその日はすぐ寝ました。