弁天在住 40代男性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
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弁天在住 40代男性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
PDF版
インタビューを書き起こした記録です。
コンテンツ番号 UT00000066
説明・要約
【震災当日】
●給水に長蛇の列:翌日、小学校で水を配っていると聞いて行ってみたのですが、かなりの長蛇の列で、途中あきらめて戻ってきてしまいました。代わりに、その日は会社が休みだったので、習志野に住んでいる弟のところへ水をもらいに行きました。とりあえず20リットルのポリタンクに飲み水を確保したのですが、以降もそれ以上必要になることはありませんでした。水、ガスが復旧したのは、1週間ぐらいしてからでしょうか。幸いにも会社にシャワーがあったので、毎日それを利用させてもらっていました。普段から外食が多かったので、食事にもそれほど問題はありませんでした。
●トイレが使用できず、毎回外へ:一番困ったのが、トイレですね。下水道がダメージを受けてしまったためトイレが使えず、毎日家からちょっと離れたところにあるコンビニなどへ通っていました。すぐ近くの公園には、市が設置した簡易トイレなどもあったのですが、何だか利用する気にはなりませんでしたね。放送を流したり、自治会の人たちが各家庭を訪問して情報を伝えたりもしていたのですが、最初のうちは、どこでどんなサービスが受けられるのかといった情報があまり入ってこなかったのも事実です。近所の人と情報交換したりして、そのときどきの情報を収集していたように思います。
●浦安のダメージは、それだけではない:震災後、自分のなかで本当に嫌だなと思ったのは、過激すぎるメディアの報道です。千葉の海沿いの地域でも液状化が発生したりしていたのですが、浦安がクローズアップされ過ぎたために地価がかなり下落してしまいました。今後の市の活性化や復興という観点からも、残念でたまりません。震災の被害を後世に伝えていくことは大切ですが、道路から浮き上がってしまった下水管のマンホールをオブジェにしたりすることに対しても、それはどうなのかな……という思いがあります。
●情報共有の大切さを実感:当時、自治会の役員でしたので、月に2、3回集まり、今後の対応策などを話し合っていました。ただし、私が住んでいた弁天はひどいダメージがあったわけではないので、それほど過熱することはありませんでした。建物の倒壊、液状化がひどかった今川や舞浜はリーダー的な人が中心となり、ブログを立ち上げて頑張っていたようです。とはいえ、自治会としての役割や近所との協力、情報共有はとても大切だと感じました。早い人は震災後すぐに修理や建て替えを行ったのですが、1カ月後くらいに市と県から補助が出ることになり、かなり安くなりましたね。最初800万円とかいっていたものが、300万円ほどで修理・建て替えできるようになったのを覚えています。