入船在住 30代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
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入船在住 30代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
PDF版
インタビューを書き起こした記録です。
コンテンツ番号 UT00000036
説明・要約
【震災当日】
●水が止まり、衛生面の不安に駆られる:いつ頃に被災後初めて買い物に行ったか、そうしたことも記憶が飛んでしまっています。最初に買い物に行ったのは、ドラッグストアだったでしょうか。入船地区は電気しか使えず、水は止まり、ガスも「ガス漏れの危険がある」と使用を禁止されていたため、お風呂には入れませんでした。知人からドライシャンプーを分けてもらい、清拭剤で身体を拭いて過ごしていました。トイレは使えましたが、流す水が出ないので、夫が近くにある噴水広場の池の水を汲んできたものを貯めておき、少しずつ使っていました。公園の水道水が使えるという情報を得てからは、そこに近所の仲間と汲みに行っていました。
●不安の中の出産:震災の影響も出たのか、お腹の子は横になった状態ということを知らされました。通常分娩では難しいため、帝王切開での出産を決断し、14日に産婦人科に入院しました。ずっとお風呂に入れなかったので、入院する際にまず、「お風呂には入れますか?」と聞きました。被災後初めて入浴でき、ひと息つけたのがとても嬉しかった。出産当日も計画停電の予定があり、手術室の横には自家発電装置が用意されていました。余震があるかもしれないとは聞いていましたが、その朝にやや強い余震があり、手術の最中に大きな揺れがきたらどうしよう、と不安になりました。
●日常生活への影響:最近では、震災発生時の津波の映像はテレビで放送されなくなりましたが、当時、ママ友から「子どもにはそうした映像を見せないほうがいい」とのアドバイスをもらいました。ほかにも、メールでの友達とのやりとりには、いろいろ助けられました。粉ミルクや水を買いに店へ行きましたが、思ったとおり品物はほとんどなく、何軒も回って探しました。このとき、道路が陥没していたり、建物と道路の間に段差ができていたり、液状化で噴出した土砂がいたるところに堆積しているのを目にしました。その土砂が乾燥し、粉塵のように舞っていたのを覚えています。
●疎開の決断:そうしたなか、放射性物質に対する脅威が不安として膨らんできました。知人の伝手で京都への疎開を決断し、退院の2日後には子ども2人を連れて浦安を離れることにしました。京都では当初、知人の家で食事などの面倒をみてもらっていましたが、あまり長いと申し訳ないので、1カ月ほどして自分で動けるようになってからは賃貸マンションを借りることにしました。夫は毎週末に夜行バスで来てくれましたが、二重生活における負担で、子供や私も精神的に辛くなってきました。そこで、距離的に少し近い長野に移ることにしました。結果としては、4カ月近く浦安を離れていたことになります。
●今も残る不安、原発問題:長い間、慣れない地での不安な生活が影響したのか、長男がその年の暮れに十二指腸潰瘍になり、3週間も入院してしまいました。子供がかかるのは非常に珍しい病気ということを考えると、相当なストレスに見舞われていたのだと思います。浦安に戻ってからも、原発事故の影響による食べもののことが、気が気ではありませんでした。以前はそれほど気にならなかった産地表示を必ず見るようになり、それも大きなストレスでした。震災直後のお産でいろいろ苦労しましたが、とても印象深いのは、ある店のレジにいた女性がかけてくれた言葉。「私も阪神大震災の時に子供を産んだのよ。大変な思いをしたけど、その代わりきっと強い子に育つわよ」。それがとても嬉しかった。